Help

平倉城(小谷城。小谷村)

  • 1
  • 253

Photos: 平倉城(小谷城。小谷村)

Photos: 平倉城(小谷城。小谷村) Photos: 平倉城(小谷城。小谷村)

東から見る平倉山。



mixi記事コピペ――2015年06月23日 19:53

15.06.09.
築城年、不詳(応永年間にはあった。室町前期)
築城主、飯森氏(仁科氏庶流)
城主、飯森氏
廃城年、弘治3(1557)年
標高823m/比高294m。

遊歩道説明板──
「対岸に聳え立つ、標高824メートルの平倉山、その山の中央より上方西斜めに三段になった城址がある。上段、中段、下段の三段式の築城で、向って左斜下には婦人等の居た局屋敷跡がある。下段は東西が25間、南北12間、中段は東西20間、南北5間、上段は東西15間、南北3間である。
かつてここに小谷城がそびえ、小谷7ヵ村の領主飯森山城主平盛照が在城した。応永のころ(室町時代)であろうか。
降って、飯森日向守盛春が上杉によってこれを守っていたが、武田信玄の武将山県昌景に攻められその旗下、曲淵庄左衛門のため打死。城はついに落つ。時に弘治3年7月5日という。この落城にちなむ、哀話、伝説、地名等は、城の周辺はもとより北小谷の戸土の辺まで点々と残っている。」

切った屋敷説明板──
「平倉城を攻落とした後、武田方では一門一族の残党狩りを行い、生き残った者、傷ついたものを捕えて男は皆切ってしまった。その場所を「切った屋敷」と言っている。
この時、ある家のお婆さんは十才くらいの男の子の孫を救うため女装させ、検分役人の前へ引き出された時、男根を股から後へ廻して押え、女と見せかけて難を逃れたとのことである。」

平倉城の合戦説明板──
「上杉謙信と武田信玄が川中島で一騎討ちを演ずる5年程前の弘治の昔、既に深志城を手に入れて徐々に勢力を北に伸ばしていた信玄は、山県昌景を将とする軍を、先ず白馬村飯森に陣を張る飯森十郎盛春を攻略した。衆寡敵せず敗れた盛春は一旦越後に脱れ謙信に頼った。その後、この平倉城を治め小谷五人衆に応援を求めた。しかし既に武田方に通じている五人衆のうち四人は承知せず最も越後と関係の深い山岸氏だけが応じた。盛春は四人の中の最も強硬な田原主馬を殺して他の三人を服従させようと企てたが、主馬に念を受けた昌景は直ぐに軍勢を率いて平倉に攻め寄せた。城兵よく奮戦したが、山上の狭い地積で兵糧や水に恵まれない山城では永い籠城は無理である。白米を馬の背にかけ水の豊富さを敵に示さんとした計も空しく、弘治3年7月5日、城はついに落城の悲運に見舞われ、盛春はじめ城兵の殆どは討死した。この時盛春の姫は名馬にまたがり一鞭あてて平倉山から中谷川を飛び越えて館山の麓までいき、姫川の深淵に身を投じて果てた。ここは今も姫が村人を呼んでいる。盛春の墓は中土の玉泉寺の本堂裏にある。なおこの時、上杉の援軍は地蔵峠を越えて深原の上の「貝の平」まで来たが、前方に燃え上がった兵火を見て平倉城の陥落を知り足とり重く引き返した。」



素人目にも、ここが地理的要衝なのが分かる。道筋として。城砦として。


巡回マップ→ https://drive.google.com/open?id=1szYFJmzPavAqrh-vwWlslTX600Q&usp=sharing

Favorite (0)

No one has added this photo to his favorite.

Comments (1)

  • 晴耕雨読 @黄昏の番犬

    2015年06月23日 20:03
    悪路、比高差・急勾配、虫類・スズメバチ、所要時間80~120分、全行程時間の都合上、登城は計画しませんでした。


    稲葉城は20分。立山は破格wwwwwwwww ホントに物見だけの山だったの????((((°A°:))))


    09:12中土駅(立山)
    09:18リスタート
    09:23平倉城域
    09:40アウト(下層域所要15分)
    09:49稲葉城(登城せず)
    09:54離脱

    01-22-2018 21:49 晴耕雨読 @黄昏の番犬 (0)

To make comments on artworks, click Login. User registration here.